混沌の「いとおかし」

わたし2年ほど前に、田中康夫長野県知事を辞する際にある媒体にこんなことを書きました。

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石原慎太郎都知事になった時に次は田中康夫だなと直感で思って、それは一橋大学出身で在学中に芥川賞を取った、という2人の共通点から単純にそう思ったんですけど、本当にその通りに田中康夫長野県知事になって政治の世界に入ってきた時に「やっぱりな」と共にこう思いました。

誰かの言葉で


「人民の99%を政治が救い、1%を文学が救う」


という言葉が歴史上にはあるんですけど、本来1%を救うべき文学者が99%を救わなければいけない政治の世界に侵食してくるのって、時代がおかしいってことですよね?

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と2年前ぐらいに書きました。


その文章を2年後に思い返してみて、今改めて思うのです。文学者が99%を救いたいと思うのと対照に、政治家は1%を救えばいいと思っているという混沌まで、今は来ている、と。小説家が政治家になるように、政治家が小説を書く、ということに今はなっている。

その混沌を混沌としたまま、複雑なまま感受する、つまりフラグメントフロアな時代に真摯に対峙しようと思った時に、例えば個人が、時に政治家的、時に資本家的、時に小説家的、であること。場面場面で、それを切り替える実存。水の中の実存。それに時には引き裂かれつつ生き、それを切り抜け次の何らかの「スッキリ」を見つけられるのか。または「スッキリ」しないままでもいいのかな。

いずれにしても、稀な瞬間を実は生きていて、やっぱりおもろいよね、とわたしは思っています。
頭を抱えつつニヤニヤしている。そんなパラドックスな生が、今はリアルなのかな、なんてめんどくさいこと、考えてます。(笑)