応急処理の世界と焦りの日常

世の中焦っています。マクロもミクロも焦っている。ボートに乗っていて、あっちの穴から水が入り、こっちの穴から水が入り、塞ぐので精一杯ってな感じになってきています。それは国家、企業、家族、あらゆる舟でそうなっていますし、まだ穴の空いていない舟も、思考停止でほっとくと時間の問題です。

穴を塞ぐのに精一杯になると、舟がどこに向かうか、目的が見失われます。

例えば今日アメリカの下院で、金融機関救済案が否決されましたね。民主主義的手続きで阻まれたから、仕方ありません、で済む問題じゃありません。国家が転覆(破産)するかもしれないからですね。(日本も明治政府は2回破産してるそうですけど。)

で、どうするんでしょう。手段を選ばず、強行施行、しますか。

もちろん日本も似たようなもんです。今の社会状況というのは、そんな感じです。
つまりマクロは忘れられ、ミクロで手一杯、ということですね。

他方、そんな社会に苦しめられる人たちがいます。声高に叫びます。穴の開いた舟を作りかえるぞ、社会を変えるぞ、と。

例えば昔、共産党員のお父さんがいました。共産党員のお父さんは明確な思想の元、人を集め、社会変革活動に熱心です。しかし、労働で稼いだ金は、全部党員活動費(というか党員仲間との飲み代)に消え、家ではお母さんがパートで働き、子供は腹をすかして、お父さんの帰りを待つが、帰ってくれば酔って暴れ、社会変革が達成されない憂さを晴らされる。

つまりミクロから逃避し、マクロに逃げるということです。
「世界平和を願う前に、隣人を愛せよ」ですね。(笑)

まあでも、この「隣人」ってのは家族だけのことじゃないですから、どの隣人がどこまで愛して欲しいか、の程度問題であって、家族だけとは限りません。会社の社長だったら社員は隣人だし、親戚だって、友人だって、恋人だって、隣人ですけどね。どこまでを「隣人」として愛せるのか、をその人の「器量」と言うんでしょうね。

つまり上述の共産党員のおとうちゃんは、子供に言わせると「甲斐性なし」であって、器量もねえのに偉そうなこと言ってんじゃねえおやじ、ということをある方は私に言ったわけですが。(笑)
まあ、でも社会運動って「祭り」だから、往々にしてありますよね。こういうことも。(気をつけて欲しいですけど、今の人たちには)

閑話休題

今の時代における前者(ミクロで手一杯)を「収束」後者(ミクロをないがしろ)を「逸脱」と言うとすれば、拡散は、この時代をどう振舞っていけばいいでしょうね。マクロの状況を自分の目線で分析判断し、目的地を決め、自分の行動を主体的に決めて地道に目的に向かいつつ、ミクロの現実からも目を逸らさずごまかさず、まずはステークフォルダ、関係各位と何をどう解決していくか、も考える。

マクロとミクロの幸福を一致させるとき、つまり公益と私益が一致するとき、つまり理想と現実が両立するとき、振り子の軸がまっすぐに伸びたとき。がもし来れば、それはよかったですね、となりますか。

その瞬間を求めるために、まずは自分の舟の修理を、ここでこうやってブツブツ言いながら補正強化してます。(笑