横文字研修のモテ度

ちょっと前に、わたしの机の上に若い人向けのビジネスセミナー一覧みたいなのが置いてあって、そこに「ロジカルシンキングセミナー」っていうお題目がありました。20代のみんなは興味深々で、会社が会員になってて、いくらいってもタダだったので、参加する人多かったみたいですけど。

ロジカルシンキングってのは、常に自分の頭をデフラグしてわかりやすく外に表現できる能力だと思うのですけど、ロジカルシンキングをロジカルに聞いたところで、それは摘要できるのかなあ、と私的には思います。

ロジカルシンキングという手法がひねり出される背景には、膨大で複雑なインプットが裏にあります。頭がぐちゃぐちゃで、考えないといけないことがわんさかあって、さてこれどうしたもんかって、部屋の掃除みたいですけど(笑)。

だから、膨大で複雑なものをそのままインプットをしない(或いは拒絶する)人が、ロジカルシンキングの手法を学んでも、そもそも使うところがないんじゃないかと思います。

それは部屋を汚すのが嫌でいつも小奇麗にしている部屋に住んでいる人が、掃除はこうやって簡単に綺麗に出来ますという話を聞きにいくようなもんで(笑)、つまり必要性がないんですよね。

部屋を汚すのが嫌だから、モノは置かない、人を招き入れない、とかやっていると、それって逆に疲れない?ってのと同じように、頭の中が面倒なことになるのが嫌だから、自分のことしか考えない、人と接しない、何もしない、とかっていうのはそれも疲れない?と思うんですけどね。

一昨日書き留めた「マクロ」と「ミクロ」ですけど、ロジカルシンキングの世界で言うと、「演繹」と「帰納」ってことで書き換えられると思います。以前にメモしといたんですけど

演繹法→問題点を度外視して、何をやりたいか、を突き詰める。
帰納法→現実を見つめ、最良の方法を構築していく

とすれば、わかりやすいでしょうか。

昔中学校の数学の授業でこの言葉と方法を教わっても、なんだか分かったようなよくわからなかったような感じでしたけど、実生活で自然に身についたロジック(パターン)に後から再帰的に言葉がスッと被ってくるときの気持ちよさって生きてるとたまにあります。

ロジカルシンキングを身に着けることは手段であって、目的ではない。しかも手段というのは、必要に迫られて身に着けないと身につかないものってことで、セミナーに参加したりして「ロジカルシンキング」というものが必要に迫られる状況って、どんな状況なんでしょうね。


例えば「モテる」必要に迫られて、とかね。ロジカルだよ、オレ、みたいな。(笑)