山の如し

私は快楽主義なんですけども、快楽の質というものがある、という話を週末にリスペクトする女史とお話してました。

最近思うのですけど、動かしがたい山ほど動かしたい。より動かしがたい山ほど燃える、という質の人種が一定数いる。恋愛でも、そうですね。たやすく心が動く相手では燃えない。(笑)

わたしはよく、ヒトから学んできたんですけど、いかに人に「感動」を与えるか。「感動」と言うと、映画を見たり本を読んだりして、泣いたり笑ったり、ということを指すように思いますけど、本質を言うと違います。「感動」というのは「感じて動く」で、「感じる」は、泣いたり笑ったり、ということと同義ですけど、そのあと「動く」、つまりその感動を与えた相手の行動が次の瞬間から変わる、ということがないと「感動を与えた」ということにはなりません。

「せっかちで気が長い」といわれます。人を感動させようということにはとてもせっかちでセコセコ動くんですけど、ひとが簡単に感動する、つまり感じて動くとは、思っていない。思っていないから、感じて動くまで、その山が動くまで何かをセコセコずっとやってみる、つまり、動かしがたい山を動かすことにこそ、実は快楽を感じているのだ、ということが本質であるように思うという話になりました。

セックスという快楽でも、動かしがたい山だから快楽が増幅する、というのは一面本当にあると思います。とりあえず手直の快楽でよい、といったら、それは快楽ではない。動かしがたい山を見つけて、それを動かしてみようか。そのチャレンジ精神こそが、人の欲情と、つまり時代を動かしてきたといえますけど、でも現代は、山の数(情報の数)が昔より多くなっていて、こっちの山が動かなければ、まだ動きそうもない山はこっちにもあるじゃん、と。それは「見切り」というのかもしれませんけど、それは世代が若いほど、タイミングは早くなっているかもしれませんね。

今、山を動かそうともしない、という諦めの人が増えているんだと思いますけど、動かしがたい山を動かそうとする努力、というのをする人がいなくなったら、その粘りがなくなったら、きっと世界は簡単に崩壊すると思います。問題が山積する時代、つまり「山」の多い時代に、どの山をどうやって動かすのか、を選択して考えて、挑戦してみることの大切さ、ですね。んなまじめな話を、女の子とする昨今ですけども。

ということで、今日はオーディオアクティブで、寝ます。