戦後カルチャー史の詰まったトイレ

世の中には「トイレ本」というカテゴリーがあるんですが(?)うちにもトイレに本棚が存在します。

トイレに置く本の基準というのは簡単で
どこからでもすぐ読める。
すぐ閉じれる。
あんまり難しくない。
この3条件につきます。

今僕の家のトイレ本は、数えると20冊。半分は「ガイドブック系」ですね。音楽各ジャンルの名盤ディスクガイド、とか、日本の悪趣味映画ガイド、とか、作品と解説がどわっと羅列してあるやつですね。いつどこからでも読めて、短時間で「なるほどふむふむ」と知識にできてトイレにはもってこい、の本なんです。逆にこういう系の本って「よし読むぞ」と思って読むものじゃないしね。

あと半分は何かというと(たぶんここがうちのトイレ特有ですけど)、まずは古本で買ってきた各時代のカルチャー誌。
これも先にあげた条件を満たします。具体的には例えば60年代の「平凡パンチ」とか、80年代の「宝島」とか「スタジオボイス」「びっくりハウス」90年代だと「SWITCH」とか「I−D」とか。内容もさることながら、表紙のデザインがいいので置いてあるというのも理由としてはあります。こういうのの小さい記事とか、ぱらぱらめくって読んでいると当時の時代の空気が良く分かって面白いんですよね。

どの時代でもカルチャー誌ってもの凄い情報羅列するんです。だから何度も読める。たまに小さい記事で、今のビックネームの若い頃、とかの記事があったりしてほえーって思ったりね。これとこれはこの時代にここでつながってるぞ、とか新たな発見があったり。まさしく暇つぶし。

それと短いエッセイを集めたものもトイレ本条件を満たしますね。特にナンシー関のテレビ批評なんかはトイレにもってこい(故人に失礼ですが)なんじゃないかな。

うちはわりと人が良く出入りしますが、そういう文化資本アンテナが立っている人は、男女問わずトイレからなかなか出てこない、というのはあります。トイレ本は、来客用のひとつの仕掛け、でもあるんです。仕掛け、というとやらしいか。もてなしってな感じです。

トイレ、というのはとても大切な空間で、過去新宿でトイレ共同アパートに住んでいたころ、どうしても落ち着きたくて
、歩いて有名百貨店のゴージャストイレ(やたら個室が広い)にいってはまどろんだりしていたこともある人間なので、余計それは思うのかもしれないですね。

お店なんかでも、トイレに気を使っている(個性を出す)ところってのはわりかし信用できたり、します。

時間つぶし、ではあるんだけども、しかし、そういうごみのような俗情報の束が、何かを作り出したりするということを、結構皆さん忘れがちです。必要か不必要か、とか、合理的か非合理的か、とかでインプットを判断しすぎなんですね。せわしないなあと思います。仕事だったら仕方ありませんが(タイムイズマネー)家のトイレぐらい、無駄に過ごしたいもんです。

インターネットが普及しだした頃、誰だか海外の学者が「インターネット上では、自分が集めた情報の束こそが主体である」というようなことを言っていましたが、現実社会でも同じですね。

いろいろなことを見聞していくと、人やものや情報の流れに、ある「パターン」があることに、気づく。その「パターン」をひとつでも多く発見するってのが生を楽しくさせる、ということは間違いないんだと思います。自分のまわりで起こる雑多な現象を、整理しやすくなるから。

そのためのサンプル集めとして、トイレの時間だって有効だから、やっぱりトイレ本、というのはないよりあったほうがいい。って、そんなラディカルなこと考えながらトイレ入ったりしませんけども。

そろそろトイレ本、入れ替えの時期にきていますが次はどんなラインナップにするか、また頭をひねらないといけませんね。今日はどんな料理を作ろうかな、と頭をひねっているときと似ています。古本屋にいかなきゃ。