サーチ マインド〜自分探し〜の誤解

「自分探し」つまり「本当の私はどれ?」

連休中にいろんな方々とお話していて、ある女の子からやたら「自分探し」という単語が出てきた時があって気になった。

「自分探し」という言葉が世の中でポピュラリティーを獲得したのは80年代の上野千鶴子「自分探しゲーム」という社会評論の本だったと思う。

僕は世に流布する「自分探し」という言葉はダブルミーニングだと思う。ひとつは「これは本当の私ではないんだ」と常にリセット(現実逃避)をしてまたゼロから自分を構築していくパターン。(よくないパターン)もうひとつは、「こんな私もいるんだ!」と常に新しい自分を果敢に発見して蓄積していくことを恐れないパターン。(いいパターン)

多くの人が言っているけども、人間というのは複合的なものなので「内なる他者」が数多く存在する。意識の中で「内なる他者」の存在を全部認めてしまうと大抵の人間は混乱と波状をきたすことになるので、一番スタンダード(常識的)な自己や肌合いのよいイデオロギーを選んで自分と決めて他の自己は切り捨てることによって、人は生き延びる。

村社会に生きていた昔の人々は、風習や慣習に従って狭い世界を生きることに徹していればよかったので、そんなことつゆにも考えずによかったのだけど今はそうはいかないので、何かしらの支柱を自分に立てて(信念を立てて)それを軸に生きなければ生きていけないが、西洋のように宗教という柱を持たない日本人は、明治以降「道徳」という柱をもってなんとか複雑な近代社会を生きてきた。

しかし今はその道徳も崩れ、あるのは溢れる「情報」のみ。人々は、情報によってまわりがどう振舞っているかを知り、その真似事をすることによって、なんとか生き延びている。それが現実だと思う。

その文脈の中で「自分探し」という言葉は出てきた。つまり、テレビの真似、雑誌の真似、友達の真似、親の真似、まわりの情報からの真似事をしては、新しくやってくる情報に目移りし、「これは本当の私ではない」と言い自分に一番しっくりくる情報(振る舞い)を探しつづける。
本当のわたしはどこかにいるはずだ、と。

特に女性誌は「自分探し」のオンパレート。だってみんながずっと自分探ししてくれたほうが
関係業界は全部儲かるものね。

特に僕らが生きてきた90年代以降というのは、あるひとつのカテゴリーの情報をそのまま真似るのではなく、いろんなカテゴリーの情報をちょっとずつ拝借してきて自分で編集(エディット)してっていう能力が大切になってきた。
でも自分だけのオリジナルなんてそんなたくさんの人が作れるわけないのでエディットしやすいもの(例えばユニクロ的的カルチャー)がもてはやされるようになってきた。

それでも、メディアも相変わらず「自分探し」を煽る。

それまでの自分を捨てて、生まれ変わろう。恐ろしいキャッチコピーだよね。



運のいい(悪い?)人は、自分を取り囲んでいる世界の外側に気づき、
その外側と対比して、今いる世界の退屈さを感じ、
退屈さを脱しようと、自分の思うままに世界を探るが、
同時に、そういう生き方の大変さ、苦しさに気づき、
ただただ世界は広がっているばかりで、
どこを彷徨っても、どこか一点の安堵の場所に収束することなど
ないのだという諦めをする。
でも、そこで絶望せずに
人間の、世界の広さと複雑さを全て受け入れる器量を持とうとそこから努力する。



人間力、というのがあるとすれば、おそらくその努力のことを言うのではないかな。

リセット文化とはよく言うけど、「自分本人」さえ簡単に捨てて新しいものを探すという、要は「消費行動」として処理してしまうというのはおそろしいことだよね。