アンチセンチメンタリズム〜歌詞について

最近、音楽を「感傷的」に聴くという経験をしてしまった。これはまずい。(笑)つまり、おセンチなんである。センチメンタルと無縁に10年近く生きてきたのだけど(彼女(今の奥さん)は武士道の女なので、そんな場面無かったし(笑))、音楽で「感傷的」になるという経験を久しぶりに思い出して、ハッとした。

「歌(歌詞)が邪魔だ」と思い出したのはいつだったか?とにかく歌が邪魔だというレンジに行くまでそう時間はかからなかった。音楽とは、感情を楽器に乗せるもので「言葉」で感情を訴えるのは音楽じゃねえ!と豪語していた気がする。若いとき。

音楽で「感動」した経験は腐るほどあるけど、「感傷」するってのはやっぱり「歌詞」なんだよな。

昔、隣の部屋のやつが毎晩「尾崎豊」とか「浜田省吾」とか「長渕剛」とか聞いて泣いてるやつで、すっかり「メッセージソングアレルギー」になってしまった。バンドブームの頃「言葉遊び」を実践しているいいバンドもいたけど、ほとんどは薄っぺらい説教とか偽悪とかかっこつけ、のようなクソ文章で、ほとほといやだった。ちょうどカラオケボックスが出てきた時期で、音源買うと「カラオケトラック」がついてき始めた時期で、あれはなんか嬉しかった。

その後90年代になると、「スチャダラパー」とか「電気グルーブ」とか天才的な言葉遊びをする人たちが出てきて、「歌詞カード」というのを見る癖がつくようにはなったけど、やっぱり「歌モノ」というものに、どうも手がいかない、という習慣は変わらないのだった。

精神が「アンチヒット曲」だと「歌詞」にアレルギーがあるってのは、方程式として成り立つと思う。何故か。日本のヒット曲はどんなジャンルの音楽であれ、歌詞は「演歌カルチャー」を踏襲している。「愛」「恋」「悲劇」なんだ。90%以上は。

「感傷」的になっていろんな音楽の「歌詞」に気をつけてみると、これはほんと「演歌」だと思った。ボサノバのリズムに言葉が載っていても、泣ける曲が、日本にはある。(笑)
いかに僕が10年以上「アンチセンチメンタリズム」で生きてきたか、ある方向性に邁進してきたか、をかなり認識してしまった。

それでも、やっぱりちょっと「ウエット」すぎるものが多すぎると思う。日本の「歌詞」ってのは。だからって何書きゃいいんだって話だけどもね。

昔本気でオリジナルつくりまくったバンドがあって(僕がやーめたっていって、ドラム抜きでCDデビューしたけどね。)歌詞担当だったので、歌詞作りってしたことあるんだけども、とにかく「どうリズム感を崩さない言葉を選ぶか」が1番で、次が「といっても歌モノをやる以上歌詞はバンドカラーになっちゃうので、どんなセンスの言葉を選ぶか」の2つだった。基準は。意味ってのは二の次。
恥ずかしいので「どんな歌詞か」は載せませんが(笑)、だから最近歌詞を注意して聴くと(まあもうメロディと言葉の載せるパターンなんか出尽くしちゃっててね。うわ新鮮!ってのはないけどね)へー、やるねえってのもあるね。

声ってのは楽器だけど歌詞ってのは「広告」みたいなもんで(笑)音楽の要素ではないんだ。でも歌詞に注意すると、その音楽が「音楽」をウリにしているのか「音楽以外の部分」を売りにしているのか、がよくわかって、おもろい。

おもろいって言いながら、泣いてんだけど。(笑)