こんな過去の振り返り方があったのか、について

僕は、今見逃せない知性として内田樹橋本治の著作を追っかけまわしてて、それはここのエントリーを読み通すと自明のことです。内田先生ブログに、今年の10大ニュースとかいって、本を今年7冊出されたとか。全部読んでるな、恐ろしい、と思いちと今年は距離置くカナと。

今本屋行くと平積みされている本のひとつに、橋本治の「乱世を生きる〜市場原理は嘘かもしれない」という新書があります。新書3部作の完結編だとか。

相変わらず「読みやすく」「ややこしくてわかりにくく」「痛快」な内容です。「読みやすい」のに「ややこしくてわかりにくい」という表現は僕のオリジナルですが、そのあたりの原因は本の中にも書かれています。

内田や橋本の本というのは、「難解なことを平易に語る」ことを至上命題にしてます。それは、論壇や文壇やアカデミック等、難解さをウリにする世界とは一線を画したいという意図でしょうけども、「難しいこと」を「平易」にわかりやすくするためには難解な問題をバラして単純化して、そのひとつひとつについて順番に語っていくということをしないといけないんですね。

複雑な問題「A」をAのまま語るところを、「A」を「abcde」に因数分解して単純化したひとつひとつに対して平易なことばを並べていく。

そうすると言葉は簡単になるけれど、文章の構造が複雑になっていく。Aひとつ入ってくるのと、abcdeがランダムに入ってくるのを「あーこういうことね」と自分で結びつけて組み立て直す必要があるので言葉の理解は容易でも、文章全体の読解には、やっぱりそれなりの訓練が必要だよね。って、それが「読みやすく」て「ややこしくてわかりにくい」所以です。

今回「痛快」だったのは、「橋本治は何がしたいか」について書かれている部分です。そこに「こんな過去の振り返り方があったのか」をしたい、というところ、これいい表現だなーと思いっきり手を叩きました。

僕は「歴史を学んで現在を感じて未来を考える」というのを人生理念にしてますけども「歴史(過去)に何があったか」を学ぶことの重要性をうまく人に説明できなかったんすよ。だって生きている「現在」が一番重要でしょ、ってことなる。

何で過去を振り返って学ぶ、ということが必要なんだろうか。

それをうまく説明することが出来なかったんですが、これは思いっきりピタッときました。

そう、「こんな過去の振り返り方もあったのか」つまり、ぶつ切りのフィールドで、ぶつ切りに起こっている事象を頭の引き出しに詰めるだけつめて、現在起こっていることを考えるときに、その引出しから、それらの事象が引っ張りだされてきて現在を解くための材料がそろう。

というかさ、過去を学ぶというのは、現在を理解しようとすることからしか動機が生まれてこない。(おー、これはいい表現だな。久々に(笑))

だから、学校で習う「1192 鎌倉幕府」的なことは一向に役に立たないことはすぐにわかる。
人間の頭に史実が蓄積されるための動機は、「現在を知りたい」ということからしか、うまれないから。動機がないことを頭に入れることほど、無駄なことはない。

現在何が起こっているか、起こったことはどういうことだったのか、について知りたい、考えたい、理解したい、という動機が過去について学び、いろんなジャンルへと好奇心を向けさせ、
個人の知的資産として蓄積していく。それを蓄積していくことで、人は成長していくし「現在をどう生きるか」について、人に惑わされない選択や決定をしていくことが出来る。

過去について知っている(わかっている)情報が少ない人は、(つまり自分の生きている時代や社会というのをわかろうと していない人)お決まりの「現在の理解」とお決まりの「生き方」しか出来ないけれどたくさんの史実、たくさんの情報をもっている人(つまりいままで自分の生きている時間や場所や立位置なんかで 散々悩んできた人)はより「深度」のある=知的に個性のある
過去の振り返り方(=現在の理解の仕方)が出来るんだ。

当たり前のことなんだけど、当たり前が一番難しいんだなあ。文字にするの。
内田樹橋本治の知性に、あらためて乾杯。(ビールで)