ライフ オブ エピキュリアン(快楽主義者の生活)

僕はおそらく快楽主義者である。

例えば酒、たばこ、ブラックコーヒー、ドラック、愛(セックス)、目の前に快楽を約束するものはいろいろあるけれども、すべてに溺れたり、嗜好の傾向アリだ。

僕が「快楽主義」という言葉を初めて目にしたのは、たぶん中学生の時に読んだ村上龍のエッセイだったと思う。バブル経済最高潮の頃で、村上は世界を飛び回って「F1」とか「テニス」とかを見に行き、世界の映画祭に出席したり、キューバの音楽に身を委ねたり、モロッコのホテルで惰眠をむさぼったりしていた。(今では信じられないけどね)そういう自分を「快楽主義者」だと本で紹介していて、なんかとても引き込まれた記憶がある。F1の話もテニスの話も興味ないんだけど、よく読んでた記憶がある。
いやな田舎の中学生だ。(笑)

世の中にグルメ、という言葉があるが、食べ物の話をすればその人が快楽主義者であるかどうかは分かる。どんな苦難も壁も乗り越えて、快楽主義者はうまいものを食べにいく。僕はどうせ食べるならうまいものが食べたくて、外食するにも遠くまで行ったりするし、自分で作るものも何度も試行錯誤してうまいものを作る。

みんなそうなのかと思うと、興味のない人、別に腹にはいりゃ一緒じゃん、という人は実は多い。(特に男)
女の人はおいしいものが好き、という言葉がある。確かに食べ物の話をすると女の人は男よりも感度がいい。でも、快楽主義者とそうでない人は一発で分かる。たいていの女の人は雑誌の情報に踊らされていたり、まわりの話に合わせる形でグルメ道に入っていくため、持っている情報の質がちょっと薄いのである。

グルメといっても、高ければいいというものではない。本当にうまいもの、を探すための苦行(時間、金、体力)を課して、快楽主義者はうまいものを探しに行く。

しかし、快楽というのはすぐ手に入るものだけではないし、目や耳や舌や、体の感覚を通じて得るものばかりではない。ある「達成」や「充実」ということだって、個人が得る快楽や愉悦のものではないのか。

例えば仕事。仕事を通じて得ていくもの「人の信頼」「地位」「名声」「富」。
例えば結婚や子育ては、維持継続していけば「子供の巣立ち」や「家族の絆を感じる瞬間」とか「自分は孤独ではないという感覚」とか。
(結婚や出産は「ハッピー」では決してない。苦行や修練への入り口である。でもその先にある「達成」や「充実」といった快楽はとても魅惑的かもしれないと思って、人はがんばる。)

こういうものは、20年も30年も苦行を継続して責任を背負って、長くて急な坂を登るような感じで上がっていく。快楽主義者は、30年後の得られる(はず)の快楽をイメージして、そこに敢えて飛び込む。

それは、たかだか一回の食事に、時間も金もかけて目的の店を絞って食べにいくのと原理は変わらない。

だから、本当の快楽主義者は、仕事も出来るはずだし、人間関係だって良好に保てるはずだ。その苦行の先にある快楽を狙って行動するから。

でも、仕事も私生活も「苦行」ばかりになってしまっては人間持たない。昔は「祝祭」といって一年に一度や二度、「無礼講」何をしてもいい時期ってのがきちっと用意されていたりした。

そういうものがない現代では、だからうまいものや酒やたばこやコーヒーや、人の愛やぬくもりに囲まれて、快楽主義者は生活している。でもそういう生活のダイナミクスって、あまり心にも体にも良くない。健康志向の現代は、人から苦行することを止めよ、と言っているに等しい、という解釈も成り立つ。もうただなんとなく生きてってくださいよ!という。

宗教家や倫理家からは怒られてしまうけれど、僕はやっぱり必要悪ってのはあると思う。

だから今、快楽主義者はどんどん減っている。

ビールを「ビールっぽい飲み物」で代用して平然と飲んでいたり、カップラーメンやコンビに弁当しか食べないでも平気だったり、それはお金がないからという理由だったりもするけれど、そういう「ライフ」は確実に人の生命力(苦行を課して悦楽を狙う)を奪っている。
本当に「ただなんとなく」生きてしまう。それは忌忌しきことだと、僕は思う。

うまいものを食べるために働く、働いたからうまいものを食べる、どちらが先でもいいけれど、生活の「メリ」と「ハリ」がない生活実態ばかりが情報としてメディアから流れてくると、いつも寂しい思いがする。