朝一の喫茶店のテラスで考えたこと

今は夏休みをいただいていて、読書三昧、音楽聴き三昧、子供と遊び三昧、の日々なんですが、予定している第二子の出産は、どうも予定通り行きそうにありません。腹を切る可能性も出てきてしまって、奥方はさぞ不安なことでしょうね。早く産まれてくるといいんですけどね。

久しぶりに午前中から喫茶店のテラスでボーっと本を読んだり、ブラーっと散歩したり出来て満喫してますが、改めて散歩の楽しさを実感している次第です。昔は、息抜きというより苦行のようにいろいろな場所をほっつき歩いては、いろいろな街の風情に浸っていたものですが、子供が出来てからはすっかり郊外車生活。これほど発見も面白みもないものはないんだなと思い知らされた次第です。

散歩して、本屋行って、本をしこたま買って、コーヒーすすりながら休みの最初を彩った本は岸田秀、でした。新書で自伝的な本が出ていたので買ってみたのですけど、相変わらずこの人は稀有の人だなあ、と思いましたね。

僕の知り合いの女の子で和光大の大学院の岸田ゼミに入っていた人もいたりなんかしたんですが、この人の「孤高」ぶりと考え方は非常に影響受けました。
母親との関係に悩み、神経症になり、高校生の時にフロイドを読んで自分の心を自己分析しながら神経症を克服し、それで培った「精神分析」の知識を昇華して「唯幻論」を編み出し、本を書き、大学で教鞭をとって、今70歳のおじいさんですが、その自分の心の奥底を覗ききる勇気と行動力と頭のよさと強さと、同じような文章たくさん読んだんですけど、何度読んでも面白いですね。

唯幻論というのは、人間は「本能が壊れた」動物であって、そのままでは生き延びていけない。だから社会システムとか政治とか家族とか、いろいろな「幻想=物語」を作ってなんとか生きている、ということです。全ては幻、なので、はかなく移ろいやすく、壊れやすいものに囲まれて生きているのだけどそれに絶望せず「そういうものだ」という意識化をして幻をコントロールして生きていけるようになれ、それが唯幻論の主旨ではないでしょうか。

みんな生きていれば傷はひとつではないし、くさい物や汚いものは蓋をして、見ないようにしたい、そう思うのは当然だし、傷がない人、もたまにいたりするけど、それは傷を作ることを恐れて何もしない人のことであってね。現実や事実、心の奥底から目をそむけない、というのは難しいことだけど、岸田秀のような強さや知性ってのは見習いたいですねえ。

だけど、岸田のような自己解決が出来る人間力のある人などそういないので、やっぱりそれには「理解者」が必要ですよね。過去の傷を全て受け入れてくれる人。これがなかなかいないんですよね。

友達なんかで新しい彼女が出来たりすると、前の彼女の面影のあるものは全て捨てて、とか。例えば友達が集めていた音楽雑誌(うん百冊あった)を邪魔だからって全部捨てられちゃった、とか。
人を好きになるって輪切りのその人を好きになるんではなくて、数ある過去の出来事の上に成り立っている連続性のある「その人」にほれてるわけでしょう?変だなあと思ってみてましたよ。そいつは、素直に応じてましたけどね。あれ、長続きしないと思う。(笑)

歴史もあって、今がある。そういう感性の欠如を危惧するログは前にも書きましたけどね。やっぱりそういう人が増える世の中は傷を持った人には生きづらい世の中で、「理解者」に恵まれる確率がますます減っていくな、と。

そんなことを思いながらも、岸田秀のような強さを的確に表す言葉を僕は知っていて、随時分今まで励まされてきたものがあるので、書いておきます。

「運命を愛せよ、与えられたものを呪うな。生は「展開」の努力である」

誰が言ったか忘れましたけども、届く人には届く。そういう部類の言葉ではないかと思います。