裏新宿と「拡散」理論

金曜日、人に会う約束があって中野に久しぶりに行ったんだけど、変わってなくて良かったですね。こう、店の寂れた感じとか、髪の毛の痛んだ女の子がギターかついで安っぽい香水を匂わせてる感じとか。
時間があったのでブロードウェイまで行ってみたけど、相変わらずの店構え。やっぱりここ、時間止まってるわ。

それとは対照的だったのは大久保と北新宿。結局中野でお目当ての人に会えずに、盟友と大久保で落ち合い、飯を食ったんです。

僕は5年前ぐらいまで北新宿に住んでいて、大久保や北西の新宿は毎日自転車でふらふらしていたのだけど、だいぶ変わってしまったですね。折からの韓流ブームってやつすか?ちょっと散歩しただけでも、例えば新宿と大久保を結ぶ小滝橋通りと四谷方面に流れる職安通り。(今は職安って言葉は差別用語だけどね)職安通りなんか、前は外国人しかいなくて香辛料の匂いが充満してて、中国人マフィアや外国人の立ちんぼなんかもまだいたりしたけどさ。
今なんか老若男女の日本人が平気で場末の店なんかに入ったりしてたり、昔の原宿の竹下通りにあったタレントショップみたいな構えの韓国スターグッズの店があったり。(でも店員は胡散くさくてさ。それはちょっとほっとした(笑))いやー、今たぶん秋葉原より特徴と個性のある目立つ街になったんじゃないですか?大久保は。

そんな大久保で、昔からよく行っていた韓国料理の店でブデチゲ(軍隊料理ね)を食って、タクシーで中野新橋に向かう途中、よく通っていた裏通り(通称タクシー通り)を懐かしいのでわざと通ってもらったのだけど、ここもえらい変わりようでしたね。新宿の死角として大好きな場所で、例えば昔からの八百屋、魚屋とかホッピーと焼き鳥が安い場末の赤提灯とか、ほんと戦後のバラック小屋みたいな建物が並んでいるような一角が、そこにはあったんだけど、全部壊れて都の保有地になっていた。ショックだったなあ。西新宿の高層ビルとのコントラストなんかたまんなかったんだけどね。そのアンバランスぶりで、毎日心安らぐ感じだったのに。でも写真撮っておいたので良かったけど。(笑)
後で知ったのだけど、僕が住んでいた北新宿のアパートの先にあったトランクルームに中国人マフィアの武器が入っていた、とかさ。そんな場所だったのに、今はポップになってきちゃいました。裏歩いてても、全然刺されそうな感じとか、しないもんね。前はしたなあ。その怪しさが、たまらなかったんだけどな。

で、盟友とタクシーの中で、懐かしの裏新宿話から、今の若者話になったんですよ。僕らが裏新宿にいたころ、20代前〜中盤って裏づけのない、根拠のない自信があったような気がした、というね。今の人は自信がないなあ。持てないんだよねって話に。

僕はなんとなく持っていた根拠のない自信を強めるために、22の時に「拡散」という言葉をキーワードにしたんですよ。「拡散」っていうのはどういうことか、というとね。

世の中には、大きくて強いものにすがりつく層(収束層)とそこからとにかく逃れようとする層(逸脱層)ってあってですね。例えば学校であれば、学校という制度に従順な収束組と出来る限りそこから外れようとがんばる逸脱組ってのがいてさ。じゃあ、学校という制度に合わせつつ、学校という制度に収まらない動きをするやつを何ていおう?それが「拡散」だと。

僕が影響を受けた人に、一流企業の部長さんがいるんですね。今はもう隠居しちゃいましたけど。仕事上たまたまその人と出会ったんだけど30ぐらい歳が違うのに良くしてくれてね。(そういう所がもう一流なんだよね)
その部長は、一流企業の部長であるにも関わらず、裏でアナルサークルを運営して土日は全国を飛び回って女の子に会ってね。「お尻倶楽部」っていう雑誌のゴーストライターもやれば、全国にアナル好き会員を増やす。その「副業」で得た金を、自分の部下やお客に湯水のように使い、彼は部長までのし上がった。まさに「拡散」!
会社にも、会社外の人生にも囚われない、素敵な生き方ですよ。リスペクトものでした。

その部長さんが、僕に言うんです。「**君ね、ほしいものは全て手に入れればいいんじゃない?」まさに、今でも忘れない衝撃的な言葉でしたね。あ、これで行こうって思っちゃいました。結婚も、子供も、会社も、全部そこだけに囚われないんでいいんだ、というかさ。欲しいものは欲しい、疲れるけど、そこの努力は怠るな、エネルギーは使え、とね。

そういうときに「新宿」という場所に住んでいたのがまたラッキーだったんですね。武蔵野や世田谷のお金持ちも不法滞在者もゲイもテニスサークルの大学生もクラブキッズ(死語)も浮浪者も、全てを受け入れてくれる街だからね。東京には数々歓楽街があるけれど新宿ほど多様で多面で懐の深い場所はないよね。(だから許せん、石原都政中田宏横浜市政も)

まあ、いいや。

そんな裏づけをもらい、「拡散」というキーワードを引っさげ、もう結構自信持って長い間生きてきちゃいました。今でも、それはやっぱり間違っていなかったな、と。
でね、なぜ今の人たちは、そういう根拠のない自信ってないんだろう?って思うと、やっぱり皮膚感覚が弱いんだという話になったんです。

つまり、なんとなくこっちのほうが面白そうだとか、こっちに行ったらやばいとか、自分の歩いている道が、どこにつながっているか分からないけど、選んだ道は絶対に間違っていない、それは理屈ではなくて皮膚感覚から来るものなのですが(そうするとたとえ間違っていても正しかったと自分で思えたりするので便利だし)、そういうことが出来なくなってるんじゃないか?ということでまとまったんです。

例えば音楽でも、「皮膚で聴く音楽」ってあるでしょう?なんとなく心地いいとかさ。情報を受動してからしか動けない、というのは悲しいことですけど、やっぱり「それ」しか出来ない状況ってのはあったんじゃないかな。特に文化的に不毛な時代だったしね。90年代後半なんかね。
マイノリティはどんどん細分化、地下化していって、マジョリティはどんどん表面化、巨大化していって。文化は経済の停滞とタイミングを同じにして停滞する、という言葉があるけれど、巨大化するマジョリティに、若者は駆逐されてしまったのではないのか?そんな話をしてました。

だから、僕が接する若い人には、皮膚感覚ってのを教えてあげたいと。自分で失敗しながら自分で道を選んでいって、誰も裏づけしてくれないなら、自分で理屈化言語化してプレゼンして人に無理やり承認してもらってさ。(笑)

そしたらシンクロにシティを感じる出会いもたくさんあったり、異質なものとの戦いがあったり、生きてることがまたひとつ、楽しくなると思うんですが、いかがでしょうかねえ?