成り上がりVSナイアガラ(似てる) 

最近、私は中途採用の面接をサクサクとやっています。サクサクと言っても、ひとつの出会いとかいったものを潰すか活かすか、うちの会社の命運とその被面接者の命運を握るわけでそりゃ疲れます。
といっても、人事総務担当ってわけじゃないんですよ。小さい会社なので責任者は何でもやらんといかんのです。最初からそれを狙って小企業に入ったわけですけどね。

さて今日も4人会ったわけですけど、「音楽での大成」を試みて挫折された人ってのが2人もいたんですよ。4分の2、半分ですよ。一人は30代中盤、一人は20代中盤、何だかなあと思っちゃうんです。

僕は、若い頃から周りに、音楽、映画、演劇、イラストレーター、まんが家、とにかく「クリエイチブ」と言われる職を目指す人ってたくさんいたんです。「いた」というと語弊がありますね。今でも「いる」んです。ストーンズよろしく、ね。それを続ける。貫く。それはそれでとても素晴らしいんですよ。勿論、大成した人もいます。でも一握り。いやヒト摘みという確率です。

大概は「有名性」とか「かっこ良さ」に飛びついちゃうわけですが、若いのでそれでいいんです。私はドラマーですけれども、それで身を立てようと思ったことは当然あったわけです。それを断念したのは、いつだったかなあ?理由は簡単です。枯渇するんですよ。表現に対しての自分のリソースが。そうじゃないヒトが隣にいたとして、それはかなわないな、と思ったんですよね。初期衝動でアルバム1,2枚は作れますけど、それ以上は常人には無理なんです。

そんなこというと、例えば音楽家でも、サザン桑田など自己模倣の繰り返しではないのか、みたいな批判も出ますけども、自己模倣ってのは、考えてみりゃ当たり前なんです。学者だって評論家だって根底で言いたいことはひとつで、言葉を替え、方法を替え、いろいろと言うわけで、それだって自己模倣です。

かの細野晴臣だって、はっぴいえんどの頃は模倣だったと公言してますよね。模倣を繰り返すうちに、自分らしさ、が出せるようになった。といっても完全にオリジナルなものというのはYMOまで待ったし、逆に言うとYMOで新しい面白いことをやってしまったがために、その後自閉的にアンビエントに向かった。

つい最近まで脅迫観念のようにあった「進歩史観」つまり新しいことはいいことだ、というある意味での思考停止は何でもあって、最近、そうじゃないでしょ、基本的なことは何かは地道に検証していかなきゃだめでしょ、ってのが思想の本流になりつつあると思いますけどね。音楽も、そういう流れじゃないかなと思います。僕らやっぱり、特に時代的に過度期で(まあロック誕生50年とかそんな短さですけど)やっぱり進歩史観につかまっていた、というのはあったと思うんですけどね。常に作り出すものは新しく面白くなきゃいけない、って考えることが、逆に言うと才能が無かったということかもしれませんね。

で、何の話だ?

面接でね、「何故諦めたか」を聞いたんですよ。今でも諦めていないか、をね。諦める必要なんかないんですけどね。もうそっちは諦めてこっちにかけます、みたいなこと言うわけですよ。つまんない理由で止めてるしね。

自分の力量への見積もりが甘かったのか、継続する「勇気」も「根気」も(そして「元気」もとくれば三本の「気」、最近聞かんな。この話)なかったのか、どちらにしても、採用通知は出せません。

クリエイチブ(ティブ)な分野というと、どうも「あせり」があるでしょ。20代で芽が出なければ、とか言ってね。人生80年とか言ってんのにですよ。その「あせり」は今やクリエイチブ業界だけじゃありません。会社人間も一緒なようです。
これ、一回チャラにしないとやばい気がしますが。一度の失敗が取り返しがつかない、という脅迫観念を強めて、どうも不健康です。
だから、大好きな音楽も「辞め」ちゃう。続けりゃいいのにねえ。40歳のメジャーデビューは、どうも選択肢として無いみたいです。

まあ、ひとりひとりのスピードに合わせるほど社会は甘くないので、自分のペースと社会的成功なぞを両立させるような都合のいいことは、考えないほうがいい、とそういうことです。音楽だって、社会的成功さえ目的にしなきゃ、これほど楽しいことないんですよ。
これって誰がいけねえの?やっぱ永ちゃん?(笑)