マザーシップからきゅーんソニーコラボまで

一昨日ぐらいのニュースで、女子大生が元彼の家を放火してしまった事件のその女子大生の父親が激白、みたいな記事がありました。
その女子大生は日本女子大、おとうちゃんは客員教授、おかあちゃんは専業主婦、兄貴は東大医学部、という絵に描いたようなエリート家族なんですって。
父曰く「娘のやることを詮索、管理しようとしすぎた」が反省の弁でした。
さて、これは娘(というか子供)を持つ身としてはもの凄く考えさせる事件ですよね。放火ってのは殺人の次に重い犯罪ですしね。
前回、子供を育てるのと部下を育てるのはそう変わりない、という話をしましたが、これも同じ文脈で語ってみます。
この父親の話ってのは、2層構造になっているわけです。一層は知性を持ったエリート層として娘といえどきちんとした学歴と知性を意識として持ってもらって、世の役に立つ、社会を担う自立した人間に育って欲しい、親の教育の根源はこれでした。しかし、「自立せえ」と言いながらも、一方で娘が何を考えているか、何をしているかが心配で、どうしても詮索管理しようとしてしまう。ミニスカはくな、ピアスするな、あんな奴らと付き合うな、管理はすればするほどエスカレートします。
子供の立場で、これはどうでしょうか。自立しろと言いながら、信頼して任せてもらえない。その矛盾、パラドックスに悩むことでしょうね。部下も一緒です。上司が新しいことをしたかったり、実務から抜けて楽をしたければ失敗や挫折を恐れず任せられる状況を作るべきなんですよ。
その状況を作ったとしたら、次に与えるのは「安心感」です。殺人したとしても、俺はお前のケツは拭いてやる、その安心感を与え、あとは困ったときだけ手を差し伸べればいい。
これを「マザーシップ」と言うんでしょうか。私の周りの有能な経営者とか尊敬できる人物というのはこういう人達が多いですね。

逆もありますよね。親や上司なしでは生きていけないような状況にしておいて、徹底的に管理する。要は方向性と施策に一貫性があれば、さして問題は起こらない。この父親の失敗は、その一貫性のなさ、一般的に「知性的、理性的」とされる教育の方向性と自分の「感情、心」を混同してしまうことによって、子供の不信感を増大させた。私はそこにつきると思うのです。
今の社会では、なかなかこういうことは難しい。。

最近読んだ本の中で、吉本隆明が学生時代に太宰治のところに何かを陳情しに行ったときに、髭を生やしていた吉本に対して太宰が「君は髭を剃ったほうがいいね。男はこれからはマザーシップだよ」と言われたそうです。うん、私もそう思います。情報が多く単純ではない世の中では、受け入れて理解してあるべき方向性を示してあげる、という方法しかないと思うんですが。

さて、遅ればせながら「電気グルーヴ×スチャダラパー」という世代的に「禁じ手」もとい「とうとうきたか」というコラボが進行中であることを知りました。元々メジャーになってからのレコード会社も一緒だし、ピエール瀧とBOSEは一緒に「ポンキッキ」やったりして白樺派言うとこの「和して同ぜず」。近からず遠からずという位置にいて、しかもここまで消えずにがんばってきた2組。ここで手を組むとは。それは必然でもあり偶然でもあり、なんともいえないところでしょうが、アルバムもシングルも出ることですし、ひとまずそのオルタナティブな15年以上の経歴を生かして、納得のいくものを世に出していってもらいたいと切望する次第です。川勝正幸の反応など聞いてみたい感じですけど。