スポーツとしての全共闘、サブカルとしての世直し

出会いというのは必然なのだけど、団塊→くびれ→団塊JR話からくびれ世代についてのログを書いていたら、その間に団塊団塊JRの対話本(往復書簡形式)「動物化する世界の中で」(笠井潔vs東浩紀)に出会ってしまう。読まざるを得ない。(笑)

笠井、という人物はほとんど知らなかった。というのも本業は小説家(推理ものね)で、高校生以来すっかり小説などめったに読まないので知るはずもない。東浩紀は同世代なので著作も「郵便的不安たち」だけ読んだ。後はちょっとおたく、サブカル方面に行き過ぎな感じがあって(サブカルを語る大切さはわかるんだけど、ゲームとかアニメとかに行ける余裕がないので)ちょっと離れていた。

でこの本は、9.11以降の世界を読み解きたい、状況を的確に枠組みできる言葉を蓄積していきたいと切望する団塊JR(東)と、今現在の社会を語る前に今までの転向も含めた自分の出自を総括して若い世代と対等に話をしていきたいとする団塊(笠井)の一年弱に渡るやりとりである。

ほぼかみ合わない議論にJR苛立ち、団塊が返す、みたいな感じで、読んでる最中は、なんか年長者が「まあまあ若いの、そう熱くならずにゆっくり話しようや」みたいな感じでこのまま終わるんだったら読むの止めようかと思ったが、最後お互いにぶっちゃける本音の段階が来て、少し救われた。(本の対価という意味で)

最後で、「世界をよりよくしていきたい、そのための議論を重ねたいと切望していた」と言い切るJRの言葉と、「その前に自己批判も含めた形の団塊を総括した上で(前提を共有した上で)話をさせてもらいたかったがJRには団塊の「転向(全共闘→一億総中流社会)」などは憤慨にも値しないし、さして気にも留めていないことがわかった」とする団塊の言葉があって、初めて議論のかみ合わなさがこっちにも理解できてすっきりした、というところなんである。

確かに、60年代後半の全共闘があって、連合赤軍事件での挫折感、そして90年前後の社会主義の崩壊、ときて、それについて「過去に言っていたこと、やっていたことの責任を取れ」と後発世代が思うか?思わないなあというのはある。団塊は戦中派に対して思っていたそうであるが。

例えば親ぐらいの世代の身近な人達を見ててどう思うのか、ということを考えればわかるけど、当時生粋の運動家だった人ほどその後社会的に成功していく人のほうが多かったりするじゃない。変に思想に凝り固まった人ほど軽井沢に逃げちゃったりしたりして。(笑
世話になっている企業の社長とか役人とか、ほとんどそうですよ。身近なところでも。

JR世代から見れば、全共闘なんてスポーツでしょって感じ。当時一番パワーがあって、若者特有の鬱憤も晴らせて、しかも公権力に立ち向かうっていう建前もあって。で、それに参加しようという個別のエネルギーっていうのがその後の人生を支えるわけで、理屈としてエレキギターをフルボリュームでかきならす、とかクラブで大音量で踊る、とかと動機としてあんまり差異がないんじゃないの?っていうさ。巨人大鵬玉子焼きっていう時代の線上だからそのエネルギーが収束しちゃったわけだし。で結果的に闘争には負けた、わけだしね。
ただ残った運動のエネルギーがバブル経済を喚起したっていうシナリオ。まとめすぎか。

それを「転向云々」という思想としての「スジ」を下の世代は突っ込んでくるはずだと思い込んでいた団塊のおっさんの考え方もどうかと思うなあ。(思想におぼれる、知におぼれる、という表現がしっくりくる)だって、確かに彼にとって使命(命を使う)だったとしても、それは個人の思い入れ、じゃない?そのレベルの話と、個人的見解は置いといて、今ここの状況をどうするか、を話したいJR知識人と話は通じるわけないんだよね。その意味で団塊オヤジは合理性を欠いていたという印象。

一方、JRのほうの話も解せない。年齢的に、「世界をよく、社会をよく」という目線に行く志向性はものすごいよく分かるんだよね。それを団塊は「オヤジ化」としてたけどね。だけどやり方として、例えば「言葉」っていうのがどれだけの力を今持ちうるかというのはあるでしょ。論壇だか学会だか分からないけど、そうじゃない勢力、机上ではなく現場、哲学ではなく社会学が90年ぐらいから脚光を浴びてきたのはそういうことで(そういう意味で織田裕二の「事件は会議室でおきてんじゃねえ。現場でおきてんだ」という言葉は象徴的。)今更たこつぼの中から現状を言い表す新しい言葉を探し出したところで、それだけ、で社会的にどういう意味を持つのだろう?と素朴に思う。

最近話題の団塊JRホリエモンは、東とは対極の行動力だけの人だけど、この人言葉の弱さを突っつかれてるでしょ。理念(イデオロギー)を大切にしてきた世代にとってみれば、信用ならん、というのも分かるんだけど、時流として行動が言葉を凌駕してる、という感じだよね。わかりやすい、からね。

総合学習、っていう学問が日本にはない、っていう話があってね。哲学は哲学、経済学は経済学、って感じが日本では多くて、総合的な知、というのが欠落しているというお話ですけど(だからマルクスのような総合知にコンプレックスうがある、というね)、今僕はこの場所でこれしか最大限出来ません、という自分の枠を自分で決めすぎ、な人は確かに多い。その意味で「おたく」であるわけだけどね。仕事の場でも似たような人、たくさんいるし、たこつぼ内の全能万能感を失わずに過ごそうとまどろむ輩も多い。生命力の無さ、は筆舌に尽くしがたいけど。

本気で社会をよりよくしていきたい、その使命を俺も負いたい、というのであれば、その覚悟と勇気と行動、そして知(知恵)が必要で(あと愛、か)、その条件を常に揃えながら大きな志を持ちつつ地道に行動しないと、と同世代としていいたいよね。「まだまだ人生先は長いぜ」とね。

35歳というのは区切りのポイントしてあるなあと漠然と思うけど。マクロもミクロもその後の30年〜40年(2050年ぐらいまで)の方向性が決まるかもなあ。団塊には何も突っ込まないJRも下からは袋叩き、ってのは将来あり得るよね。たこつぼで一生終えようと思ったら、外側からハンマーで叩き潰されたりして。年金受給前とかに。(笑)