80年代っ子世にはばかる

前のログでの音楽業界の団塊の世代運動、つまりフォーク〜ニューミュージックとそれに付随する音楽システムの変換みたいな話はとても面白いんだけど、社会での団塊が邪魔して若手の労働市場が逼迫している、とか団塊がえらそーにしててウザい、といった言説は、実は音楽シーンにおいてもそうなんじゃないかと思う。特にスタジオミュージシャンとか。市場は限られているしね。

僕が細野晴臣氏をリスペクトするんだけど、理由のひとつとして一時の居場所にあぐらをかかない、というのもあるんですよ。(この考え方はまた後術します)年寄りはいい枯れ方をして、一線からは潔く退くべきですよといった感じがまたいい。

先日そういった偉い団塊の世代に怒りを爆発させる本に出会ってしまった。著者言うところのくびれ世代(団塊団塊JRにはさまれた世代)からの、双方にむけてのアジール(パフォーマンス)本、「若者は何故怒らなくなったのか」(荷宮 和子 中公新書ラクレ)である。

とにかく上にも下にも腹が立って仕方がない、数の論理の民主主義において(しかも女性なのでというフェミズム言説も含む)、社会的マイノリティなあたしら、この社会に今後どうやって希望もってきいきゃいいんだよ、双方数多いんだからしっかりしろよ!という本である。

私はもろ団塊JR世代である。怒らない、というか「他人との摩擦を避ける」というのは学術的にも確かに世代的特長であることは昔マーケティング調査本で読んだことがある。内容的に非常に納得出来る部分も多いのだけど、いかんせん、パフォーマンスの目的に対して新書という媒体は情報量が少なすぎる。話が膨らみすぎて、乱暴な論調になってしまい、読み手がどこまで感受してくれるか、が微妙なところではある。

そのJR世代側から、この件についていうと、怒る、ということに限らず「喜怒哀楽」という面では、特にパブリックの場でそれを発露できる能力が無い人がとても多いのは自身感じるところである。原因はなんなのか、というのは70年代以降の子育て論、というところに行き着いてしまうと思うのだけれど、日本の今の構造は、先天的にえらそーな団塊世代→それに様々な反応でやりくりするくびれ世代→知らぬが仏の団塊JR世代→以下今後の動きに注目、という構造であることにさして異論なし。

そういえば、90年代に入ったころに「80年代は何もなかった」というような論調があって、浮いては消えていく新人類の旗手がいっぱいいた、というのはあったよね。アサヒジャーナルでの筑紫哲也の連載なんか後から見ても、全然残っている人がいないもんね。泉麻人とかぐらいでね。
文化的にもぱっと見派手なパフォーマンスだが内実がなくて一発屋で終わる、というね。80年代前中期ってそういうイメージがあって、でもそれって今考えると、団塊の世代がどかっとシステム構築して居座ってしまって、それを突き破って表舞台に出ていくにはそういう方法論(ニューウェーブ)しかないじゃん、みたいな空気があったのかもしれないなあ、と思う。

そうなると同じくびれ世代でも、80年代後半に出てきた人達って、それ以前の反省を活かしてもの凄い自分のやってることを自己相対化しながら、練りこんで、みたいな人が多くなってきて、僕はそういう人達の表出に影響を受けて育ったんだよなとかんがえる。
音楽で言うところの、代表的にはフリッパーズギターとか、石野卓球とか、ね。確かにそういう賢い人が中にはいた。

これってお笑いで言うと分かりやすくて、漫才ブームがバーっとあって、どんどん消えていく中で、自己相対化して変化変化を繰り返す人が島田紳助やたけしや、ちょっと相対化しきれてなかった鶴ちゃんとか(笑)そういう感じでしょう。模索しまくりっていう。

でも、そういう相対化のプロセスを重視して「かっこいい」と思う受け手(つまり団塊JR)って今考えればやっぱりマイノリティーで、多くはうわっつらだけ見て、それに乗ってしまう。うわっつらの程度はいろいろあるけどれも。

その本にも書いてあるけど、ランキングの上位だけ見てモノを買う、独立独歩の変わったことはしたくない、出来ない、というメンタリティーはあって、なんか生き辛さみたいなものは確かにあった。変わってる、という連中で路頭を組んだりするし、ね。(笑)ちょうど社会がネットワーク化する時期でもあったから、情報が細分化、大量化していく中で、自己防衛のために殻を作って群れを作って、受取りやすい情報や狭い範囲の情報だけにコミットしていくという感じなのかな、というのが当時学生だった頃の私の解釈。
でも数が多いって、単純に多くの人をそういうメンタリティにさせるのかもしれないよね。
難しい問題だけど、集団心理ってそういうもの、なんじゃないかしら。

で、このくびれ世代の著者ですが、どうも上野千鶴子直系の、80年代女性特有の、なんというか体臭が。(笑)戦後民主主義、たかだか戦後ウン十年のシステムを「絶対正義」として持ち上げてしまう態度が、歴史、現在、未来を繋ぐ総合的な知慧という意味で不足感を感じてしまう、というのが正直なところである。やっぱり、新書じゃボリュームが小さいんじゃないかな。

あと、肩書きは文筆家みたいだけど、広く訴えたいという目的に対しての戦略が稚拙だなと思う。団塊世代が読むことを想定しているんであればもうちょっと書き方があるだろうし、ビジネス上のリベートとかプレゼンとかの基本と比較すればわかるけど、あれじゃモノや企画は売り込めませんよ、っていうことになっちゃうでしょ。
団塊JR、つまり私ぐらいの人が読む可能性もなきにしもあらずだけど、多数のJR世代は新書なんて好んで読まないしね。
でも、フェミニストって、それを「女性だからそういう風に相手にもされないんだ」って被害妄想に単純化して持ってっちゃうんだろうなあ。スキルとかテクニックの問題なのにね。どっかの宗教信仰者を相手にしなきゃいけない感じってあるでしょ。物事とか人間とかって複雑な構造を持っていて、そんな単純に正義と悪って判断できないのになあ、という感じ。難しいところですな。

糸井重里ほぼ日刊イトイ新聞」内ズーニー山田氏「大人の小論文講座」がいい対比になると思う。おそらく同世代で通ってきた道も近いのだと思うけど、訴求能力という意味で、内容もさることながら共鳴を集める世代範囲ももの凄く広いだろうな、と思う。この世の憂いを正したい、という大義は同じでも、何かどう違うのかなあ、、と考えてしまった。

そうなるとやっぱり自己相対化、悪戦苦闘を繰り返しながら自分自身の、とうてい到達は出来ないはずの真理に向かっていく姿勢の有無、なのかなあと思う。なんとなく「何故若者は〜」のほうは行き詰まってぶちまけちゃったという感じで、前述のニューウェーブ一発屋と同じ原理になる。そういう意味で、やっぱり80年代ッ子だネ(この「ネ」の感じ(笑))、ということで落ち着いてしまった。