余暇と余金が産むカルチャー

余金と余暇、文化を作り出す上で欠かせない要素である。学問も芸術も、全てはこの素養を持った人とそれに惑わされなかった人達によって発展してきたと言っていいのではないですか。(3度のメシよりなんとか、的なね)

よくフランスの事例(階層社会の上部で育まれた様々な文化)が取りざたされますけど、日本でも70年代ぐらいまではあったんじゃないですかね。フランスのような高尚なものでなくても。

例えば、日本語ロックの草分け「はっぴいえんど」がいますけども、松本隆は官僚の息子、細野晴臣鈴木茂も、当時そういう比較的高い階層に存在してて(当人は中の中と言ってますが)当時楽器を演奏するなんていうのは、もっと前のジョージ川口のような世代で庶民レベル出だと米軍キャンプ地周辺ではちゃめちゃやりながらミュージシャンとしての腕を上げて行くしか方法がない。あと音楽が出来るレベルなんてのはおぼっちゃんしかいなかったわけですよね。石原慎太郎太陽族裕次郎の浮世離れした存在感も、庶民のものではなかった。そのハイカルチャー層に近づきたいというパワーが高度成長を産んだ。

はっぴいえんどがフォークだったのは東京のハイソ出ではない、東北出身の大瀧詠一の存在が大きいわけですけどね。(といっても公務員共働きで裕福だったそうですが)

ま、そんなよくある余談はさておき、はっぴいえんどの奏でる「ロック」「フォーク」の響きは洗練さにおいて、同時代の他に類を見ないですよね。私も含めて今でもちゃんと若い人に聴かれる理由はそこにある、と思います。最近は当時の資料がたくさん公開されるようになってますけど、バンド演奏の舞台となった仮装パーティや夏中ずっと別荘を借りてセッションを繰り返した、とか、よほどの暇と金がないと成り立たないことがたくさん書いてあります。

でも、そういう層が生み出す文化というのは結構重要ですよね。だってその別荘でのセッションを繰り返した人達が、日本のポップスシーンを支える人たちだったりするんですからね。

80年代になるとそういう層(例えば有名エスカレーター私立中高生)が牽引するものってのがなくなってきちゃいます。ちょっとした金と暇をみんなが持てるようになったから、ですよね。そこで出てきたのが膨大な数の浮かんでは消えたサブカルチャー群と人々、だったと。

やっぱり、ちょっとした金と暇、ではちょっとしたもの、しか醸成できない。永劫暇と金を持つ環境の人や投資しつづけてもらえるパトロンの存在なくして、物事の本質の追及が出来ない、というのは一面ほんとでしょう。プロのスポーツ選手も芸術家も学者もね。だから、どんどん今そういうもの、そういう人が衰退してしまうんですよね。(国立大の研究費なんてひどいみたいですねえ)

でもですね。金も暇もない人は文化を担えない、というのは仕方のないことですが、金も暇もある人がまた金を暇を再生産するような資本主義というのは、ちょっとつまらんなと思いますし、特に日本はそういう感じが強くなってるような気がしますよ。

プロのスポーツ選手がアメリカに行くのは、自分の追求がお金となって返ってきて、また追求できる環境が整う、というのが日本よりすんなり出来る、ということですよね。お金を儲けにいってるわけではなくて、追求できる環境を欲しにいってるわけです。そこの精神性を見るから、人々は感動する。

前にノーベル賞をとったサラリーマンなんて典型ですよね。地位も名誉もいらんから研究に没頭できる環境(小金と暇)をくれと、素直な人だなと思いましたが、野茂やイチローだって松井だって同じですよね。本来自分で稼がなくても、技術精神を追求できる環境を誰かが支援してくれれば、別にどこでもいい。何かを創れる人、というのはそういうものだと思います。

例えば、売れないけどいい品を揃えている店。潰れないのは他に収入があるからってパターンが多いですよね。売れなくて構わないから、これで生活できなくても構わないから、そういう余裕というか志がね、商品揃えにも出てます。いいレコード屋も古本屋も喫茶店も、今はみんななくなっちゃう。寂しいですよね。金のある人、助けて欲しいと思うんですけど。そういうもの、人を。社会システムからは逸脱してますけど、社会の余裕としてとっておきたいところでしょ。

下層社会の叫びが、例えばブルースからロックへといったり、プロレタリアート文学とか日本でいうと長塚節の「土」あたりから続くようなああいった生活の切実さが表現として表れるみたいなものもあるにはありますけど、私はだからあまりそういうのは好きではない。好きではないというか共感したくないのです。(尾崎、浜省のメッセージソング、みたいなね)

表象物は「人を救う」ものではなくて「人を惹きつけてやまない」ものに価値があると私は思います。「多くの人を救う」というのは「自分を救った(生きれるようになった)」ものが普遍的に多くの人をも救えるかも、という延長の考え方ですよね。
「ひきつけるもの」と「救われるもの」が一緒くたになっている音楽文化は複雑で「音楽を聴く」という行為では決してくくれない構造を持ってます。そういう人が同じ土壌で話すと、おかしなことになる。日本の音楽シーンでも、そういう人どんどん減ってますしね。

2極化とか独身文化、とかいって、お金が「過剰」にあるひともたくさん出てきてるわけですから、そういう人は金は稼げない(暇はたくさんある)がいいものを創っている人に支援して欲しいなあと思うんですがね。金が金を産む架空経済だけの世界じゃ、味気ない。
それともこれからまた再構成される金と暇のある層で何か出てきますかねえ。僕はそうは思わないんですけど。「余」がまわるべきところにまわる仕組み(ファンド?)みたいなもの、ないかなあ。でも支援決定のプロセスをプレゼン形式とかにしちゃうんだろうなあ。それじゃビジネスだって。(笑

2極化とか階層社会が根源的に肯定か否定か、みたいな議論が盛んですけどね。私はビジネスマンとしては肯定だし(ピンチでもチャンスでもある、というやりがいの意味でね)生活者としてはより家族が安心して暮らせる社会が実現するのではあれば、それでいいと思います。

でも、こと文化ということに限っては平準化された社会ではなかなか新しいものが出てこないんじゃないですかねえ。僕が若い頃知り合った才能と情熱がある人はいますけど、結局ビジネスマインドの高い(コミュニケーション、人脈、あたりね)人が有利になっちゃう。街の商店街や路地裏の駄菓子屋が無くなって郊外型の大型店しか無くなっちゃうという議論と同じ原理ですけど、やっぱりなんとかして欲しいですねえ。