ドラムが上手くなりたきゃ棒っきれ持つ前に恋愛してこい~ポンタさんを偲ぶ

さすがの年度末、ようやく村上ポンタ秀一追悼を帰りの電車内で。レクイエムを書くことによる効用、自浄作用はいろんな人が書いてますが、最近あたしもそういう年齢なのかレクイエムばっかり書いてる気がします。


わたしのポンタさんの最初の認知は、中学の頃トモダチの家で聞いた氷室京介の最初のソロアルバムのドラマークレジットによってだったと思います。1988年。

その後だったか最中だったかイカ天審査員に登場した怖い人というのが次の認知、そしてドラム教則ビデオを高校生の時に見て本格的に好きになり、プレイヤーとしてもリスナーとしてもポンタさんの世界に入り込むようになりますが、特に70年代の和モノをその後に追いかけるようになったネット未発達の90年代、少ない情報と手足を動かせ、の中でのあたしの和モノ漁りは「細野晴臣のベース参加」と「ポンタさんのドラム参加」の2系譜から主に辿ると名作に辿りつくことに途中で気づき笑、そしてそのふたりの少ない合流点として、山下達郎「love space」と吉田美奈子「恋は流星」に最後たどり着くという(恋は流星は細野さんはベースじゃなくてガットギターでの参加でしたけど)、いま考えるとなんと幸せな結末を迎えた若かりし頃の70年代和モノ漁りの旅であったかと、いまとなっては思い至ります。


ポンタさんの功績は、なんといっても、それまでジャズ界にしか無かった職業ドラマーの表現個性というものを日本の歌謡ポップス界でも認めさせ、ひいてはドラマーという職業の地位向上に貢献した、ということに尽きるのではないかと個人的には思います。

特に70年代中期に16ビートをいち早く操れるドラマーとして、例えばピンクレディもアントニオ猪木のテーマも、ガッチャマン宇宙戦艦ヤマトも、広域にポンタさんの独壇場だった時期があったし、スリーディグリーズの「苦い涙」みたいなこともポンタさんにしか当時出来なかったことだったわけですが、ポンタさんをそこまで引き上げたのはおそらく大村憲司さんとの、ファーストキャリア「赤い鳥」での出逢いと刺激にあったんでしょうし、その時期にちょうど登場してきたタワーオブパワーのガリバルディを特にアイドルとして追いつけ追い越せと修練を積んだんではないかと当時の出音、特におかず聴くと思いますし、偉いのはオレだという芸ということもあって笑、著作やインタビューにその辺を明確に書いたものは読んでないけど、参加作品を時系列に追っていくと、特に72年〜74年ぐらいの技術的な向上は尋常ではなく、その二つのインパクトを想像しています。


往年の、流離のジャズメンやブルースメン的な、ノムウツカウな世界観を自で行こうとした最期の世代って感じで、ジョージ川口に後継ぎますと宣言してる場面もみたような気もしますが笑、だけどシノギとしての面だけじゃなくて、さすが良家ブラバンあがりの優等生出自を完全には消せず笑、純粋に趣味的な音楽愛を持つ面も同じようにあって、それが音楽的にも人間関係的にも振れ幅になっていた、のではないかと思います。


うちに保存してあった2004年のドラムマガジン、ポンタさんの音楽生活30周年特集にあるディスコグラフィのクレジットがあったものの一部リスト、あと自薦曲10傑が載ってます。自薦10傑はテン年代に「俺が叩いた」シリーズ本に発展しますけど、これ見た時泉谷しげるだけ持ってなくて中古屋に走りましたが笑、いまなら即YouTubeですけど、便利な時代ですな。


最後にポンタさんのプレイ私的ベストプレイといえば、自薦10傑の一位にもなってますが、あたし的にもやはり吉田美奈子さんの「朝は君に」ということになります。全体に漂う色気を際立たせる泥臭く重心の低いプレイ、アウトロの個性、もう25年ぐらい聴いてる筈なんですけど、いつ何回聴いても痺れます。それはリスナー耳とプレイヤー耳、両方で聴いてるからだと思いますけど。


謹んでご冥福をお祈りします。