久々に感じる強いシンクロニシティー藤原辰史さんの寄稿文ー

週末の朝日新聞に寄稿された京都大学准教授の藤原辰史さんの「人文知を軽んじた失政」というタイトルの文章、久しぶりに強いシンクロニシティを感じた。歳も同年代で、同時代人として勇気が湧いた。

大事なところを写経したんだけど、ここにも備忘録で載せておきたい。カッコ書きはあたしの補足。


…(混迷の時代に示唆を与えてくれるのは)研究者や作家だけではない。教育勅語と戦陣訓を叩き込まれて南洋の戦場に行き、生還後、人間より怖いものはないと私に教えた元海軍兵の祖父、感染者の出た大学に脅迫状を送りつけるような現象は関東大震災のときにデマから始まった朝鮮人大虐殺を想起する、と伝えてくれた近所のラーメン屋のおかみさん、コロナ禍がもたらしうる食料危機についての英文記事を農繁期にもかかわらず送ってくれる農家の友人。そんな重心の低い知こそが、私たちの苦悶を言語化し、行動の理由を説明する手助けとなる。

これまで私たち(人文研究者)は政治家や経済人から「人文学の貢献は何か見えにくい」と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられ、そのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。

だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。(中略)
危機の時代に誰が誰を犠牲にするのか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度アンシャンレジームには戻れない。…(以上転載おわり)

長いスパンでモノを捉え考える、重心の低い知性、現場感覚、言葉の重さ(五感を駆使した信頼)、コロナ禍はこういう原理原則を変えてはいけないと改めて人々に考えさせてくれる機会になってほしいと切に願う。
あたしは変わらずその在り方を続けたいと思うけど、そういうものが「派手さはなくても力強さを失わない」運動体になることが長い時間をかけて証明されるよう、今日もまた「手触り」と「温度」のある仕事に励みたいと思う。

 

最後に「重心の低さ」で思い出すエピソードをひとつ書いておく。

大瀧詠一さんが作曲家の船村徹さんにインタビューした時、大瀧さん自身が「冬のリヴィエラ」で、ポップスでは実現できない「重心の低さ」にトライしてみたが、船村先生の「王将」の足もとにも及ばず、歌謡の世界からさっさと退散した、と自嘲気味に言っていた。

船村徹の東北人としての重心の低さが曲に出ることについて、大瀧さん自身も東北人であることからモノにできると思っていた、ということなんだろうけども、そこで大瀧さんは船村徹に改めて敬意を表していた。

あたしは東北人ではないが、その文を読んだ時から重心の低さが及ぼす「何か」についてずっと考え続けている。